〜 プロローグ 〜


『コツコツコツコツ』
薄く頼りない夕陽の差し込む暗い室内に、規則正しく鳴り響く小さな音。
扉の近くにたたずむ大きな古い置時計が刻む秒針とはまた別の、その小さな音には感情のようなものが感じられる。
部屋はすでに薄暗く、夕闇に包まれつつあるが、
この場に目利きの古物鑑定人がいればいずれも目を見張らずにはいられない調度品がズラリと並ぶ。
いずれも必要な物が必要な分だけ、ごくごく当たり前に日常を演出するよう配置されているだけではあるが、
もし、中世英国貴族の室内に時間旅行が可能であるとすれば、まさにこの部屋がそれに該当すると誰しもが思うはずである。
ただ一つ、時代にそぐわない物があることを除けば......


時計に負けず劣らず、こちらもかなりの年代を感じさせる大きなマホガニー製の机の上には、
象牙を削り出して作られた骨董品というより、その造形美から美術品と形容してもおかしくないチェスの駒とチェスボード、
そして、わずかに一条の線となった夕陽とは対照的に、機械的な音を立てる淡い青色の光源。
目に見える範囲に、配線などという野暮なものは見当たらないが、
場違いなその物体は現代社会ではパソコンと呼ばれる機械である。


『コツコツコツコツコツコツ』
チェスの駒(形状からしてクイーン)がチェス盤に打ち付けられる。
モニターから発せられる光に照らされているのは、この部屋に似つかわしいというには、まだ年若い少年。
室内の家具の方が彼より十数倍、物によっては数十倍先輩であるが、
しかし、少年がこの部屋の主であることは、彼のサイズにあつらえた椅子が物語っているだろう。
革張りなどではなく、古来より本物の貴族が使うべく手間のかかる布張りの椅子であることも特筆※しておく。
※(革張りの製品は汚れてもよい労働階級のものであり、真の貴族はいずれも張り替えのきく布製の家具を使った)
両開きの窓からは、夜気の風が静かに入り込み、小さな主人の頬にかかる柔らかい金髪を撫でていく。


『コツコツコツコツコツコツ』
軽くチェス盤に打ち付けるクイーンの動きとは対照的に、彼はじっとモニターから目を離さない。
その表情からは、おおよそ喜怒哀楽めいたものは感じられないが、駒をもつ指先にはわずかな感情が見え隠れする。
指先が物語る感情を簡単に言い表すとするならば、
苛立ち、焦燥といえるが、それ以外の様々な多分に感情が含まれているようにも見える。
あの時こうしていればという後悔.......それは思考の迷路のようなものかもしれない。
迷路とは、出口にたどり着けない限りは終わらないと相場が決まっている。
部屋の主の名はヘンリー=ウィリアム=クレイトン。
大英帝国の大貴族クレイトン公爵家の嫡男であり、その類稀なる頭脳で5年後に欧州全土を救うことになる天才少年である。

しかしその天才少年の頭脳も、今は数日後に控えたチェスの世界選手権に向けてフル可動するべき時期にあり、
パソコンのモニターに映し出されているのは、チェスのゲーム。
しかもネット対戦の盤面であり、対局は既に終えていた。
天才少年であり、現役最年少チェスのチャンピオンであるヘンリーの操る王の死(チェックメイト)を迎えて......




「ヘンリー様?」
『コツコツコッ.......』
既に暗い部屋の扉から廊下の明かりが差し込んでおり、彼が誰よりも信頼している初老の使用人が立っている。
年齢を感じさせない、スっと伸びた背筋、一部の隙もない着こなし、柔和と毅然が同居した雰囲気はヘンリーに自然と安堵をもたらす。
「どうしたんだい?アル」
代々のクレイトン家を支える執事、アルフレッド=クーパーは一つ溜息をつきながら部屋の証明のスイッチを入れる。
「どうもこうもありません。何度ノックをしてもお返事をなさらない。
 主人に失礼を承知で部屋に入ってみれば、こちらに全くお気づきにならない。
 おまけに暗い室内で画面を見ていては、目を悪くするようせっせと努力しているようにしか見受けられません」
扉の側の置時計から、やや重苦しい鐘の音が7度鳴り響く。
「もうこんな時間だったのか........外も真っ暗だね」
アルフレッドは室内を横切り窓を閉めると、やや重いカーテンをおろしながら、
目立たない位置に設置してあるセキュリティシステムもさりげなく確認していく。
「まだまだ夜風は身体に障ります。
 熱心に勉強なさっても体調が悪ければ、いざ本番を迎えても元も子もありませんよ」
「それは......そうなんだけどね」
大きな背もたれに少々だらしなく背を預けながら、子供にしては大人びた苦笑を浮かべる。
左手にもったクイーンを器用に弄びながら、ヘンリーは再び思考の沼へと戻りかける。
「そういえば。ヘンリー様のアレは久々に見た気がしますな」
「..........アレ?」
「ソレでございます」
アルフレッドはヘンリーの左手を手の平全体で指し示す。
『ポムポムポム』
ヘンリーはクイーンの駒で肘掛の布の部分を軽く、そして規則正しく叩いていた。
「悪い癖だね」
クイーンをチェス盤の上に戻しながら、今度は子供らしい照れ笑いをアルフレッドに向ける。

「私が記憶しますに、2年前にマクマソン卿に負けた時以来ですな」

マクマソンは車椅子に腰掛け、顔をクシャクシャにして笑う小さな老人だった。
貴族にして元英国海軍大佐、希代の名機スピットファイアで自在に空を駆け巡り、友と家族と国を救った英雄だった。
そしてその波乱に彩られた人生最後のチェスの相手にヘンリーを指名した、世界でも有数の指し手だった。
プルプルと振るえる細い手で駒を摘んでは、サクリファイス(駒の犠牲)を全く躊躇わない。
チェスというゲームのルールを覚えたときから、一度として敗北を喫しなかった天才少年のたった一度の敗北。
しかし、ヘンリーがリザイン(自分のキングを倒し、相手に降参の意を伝える)をした時、
勝者の小さく偉大な老人はその結果を見届けることはなかった。
勝利を確信した笑みであったのか、それとも未来を託せる相手に出会えた幸運を感謝したのか、
安らかで満ち足りた表情を称えて老人は盤面の前で、神の御許に召されていた。
この対局を思い出すたびに、ヘンリーは駒をコツコツと打ち鳴らしていた。

その半年後、ヘンリーはチェスの世界チャンピオンとなった。



「そうだね、負けたのはあれ以来だけど.......実はここ3日で三度負けてる。しかも同じ相手にね」
自嘲気味に打ち明けるヘンリーの言葉に、アルフレッド自慢の片眼鏡ずり落ちかける。
柔らかい笑顔を絶やさないが、常日頃から沈着冷静をモットーとするクレイトン家の執事のこういったリアクションは非常に珍しい。

もう一度記述しておこう。
ヘンリーは最年少記録を樹立した、チェスの現役世界チャンピオンである。
平たく言い直せば、現在世界中のチェスの指し手の中で最強なのである。

「このチェス盤の向かい側に座っていたのは誰なんだろう」
再びモニターに視線を向け、両手の指を口の前で組み合わせため息をつくヘンリー。

その彼を打ち負かす人物とは一体?


Aパートへ