最悪の事態に備えて、まずアルフレッドのとった行動。
それはクレイトン家の有する電子的セキュリティレベルを、通常時よりニ段階上げることだった。
この行為を実行するには、本来1ダースに及ぶ書類と認可が必要な行程なのだが、
緊急時に彼に与えられている権限は、クレイトン家当主と同等に位置する。
これにより常駐するセキュリティスタッフが、すぐさま『アイギス』は本来の2乗倍に相当する防壁を展開、
セキュリティレベル3は『アイギス』にとっても、稼動して以来、初の領域である。

現在のクレイトン家は目に見えるところでは全く変わりが無い。
しかし、水面下、電子の海の底において完全なる戦闘状態に突入した。



「これ以上の追跡となると、私の手におえないようですな。」
「と、言うことは.......少なくとも相手は黒、ということなんだね?」
現在ヘンリーのパソコンは、アルフレッドが持ち込んだノート型パソコンと、その他の様々な機械に直結されている。

推測ではなく、わかる範囲での事実確認、情報の獲得を優先する。
クレイトン家の執事長アルフレッド・クーパーがセキュリティの次にとった行動は、『敵』の情報を得ることだった。
エラリーがこの件に関して素人であった場合、ネットの海に必ず痕跡が残る。
アルフレットは合法と非合法のどちらかと言われれば、間違いなく後者の手段で、残されたカケラを集め、修復。
それはアクセスの跡であったり、通信におけるホストの情報であったり、それらがくっきり残っているのであれば問題はない。
エラリーとう人物は全くの偶然で世界チャンプであるヘンリーとネットで3度対戦し、勝利をおさめ、
なんとなくそれらしいメッセージを残しただけ..........とういことになる。
クレイトン家から情報を盗むようなハッカーの類でもない、ただの一般人。
3度チェスを指すことになったのもなんとなく。
偶然のイタズラだったとすれば、この話はここまでで終わる。
慎重な執事長が、大事をとってあげたセキュリティレベルを一般レベルに解除、
慌しく動くことになった、セキュリティ部門のアイギス担当者は、緊急召集により食べそこなった夕食に戻るだけである。
残念ながら、その遅い夕飯はまだ先に延びることとなる。

アルフレッドがエラリーの痕跡をたどっていくと、そこには世界最高峰のセキュリティ、アイギス防壁並の歓迎が待っていた。
クレイトン家の執事長にして万能の彼は、これ以上踏み込むのは間違いなく危険と判断し、追跡を打ち切った。
普通に生活している人間にとって、これほど厳重な防壁はまずありえない。
住居に例えるなら、地下300mに埋設されているスイス銀行の特殊金庫で生活しているようなものである。
このことから、ヘンリーも言ったように、エラリー・クイーンは間違いなく黒。
しかも電子情報戦のエキスパートであることが判明した。


「間違いなくエラリーはプロですね。問題はどうやって通常状態とはいえアイギスを突破したか......
 さらに彼が一体、何の目的がどこにあったのか、今現在ではわかることは少ないといえます。
 ただの愉快犯とは思えませんし、セキュリティシステムの自律精査の結果を待ちましょう。」
アルフレッドはジャズピアニストより滑らかに、ノート端末のキーボードに指をすべらせ一旦電源を落とした。
「目的ね........
 手段はどうあれ、僕とチェスを指しに来た.....じゃダメかな?」
「仮にそうだとしても、彼はアイギスを突破しうる手段を持ち合わせている。
 情報が少なく推測に過ぎませんが、今回の一件はデモンストレーションかもしれません。
 たまたま世界チャンピオンであるヘンリー様とネットで対戦し、たまたま相手が誰であるか推測できた...
 これが偶然というにはいささか無理があるかと。
 ですが.......ヘンリー様には何か根拠がありそうですな?」
ヘンリーはやや気まずそうに頭の後ろに手を組む。
「まず最初に、僕は英国人だけどオカルトは信じてない。
 それでもあえて言うんだけどね、僕がチェスを指した相手はマクマソン卿だ。
 これにはチェスプレイヤーとしてのプライドを賭けてもいい。
 なぜ彼だと撲が言い張るかの根拠も実はあるんだ。」
そう言うとヘンリーはマホガニー机の引き出しから、丁寧にまとめられたファイルケースを取り出した。
一見、新しいものではあるが、かなり頻繁に使われている印象を感じさせる。
「これは.......チェスの記録ですな?」
「記録というか、僕がある人と対戦した場合に備えたシミュレーションの結果なんだ。
 あらゆる場面を想定して、どの状態からだって勝てるように、練りに練った戦術の集まり。
 一昨日から3度対戦した相手がね、マクマソンさんだと思ったのは、
 これまで僕の頭の中で対戦したのと全く同じ動きをするからなんだ。
 1度目は偶然だと思った。
 2度目はまさかと思った。
 でも今日、確信できたんだ。このモニターの向こうにいたのは......」
「ヘンリー様はわざとお負けになったのですね?」
「ん〜、わざと言うと......そうなるかな。
 同情とか憐憫といった感情じゃないよ、好奇心の方が強かった。
 確認するためには撲のシナリオ通りに相手が動くかどうか、実際見てみないとわからないし。
 これがオカルトなら卿がパソコンのフワーっと降りてきて、チェスを指したで終わるんだけどね。」
ヘンリーはおどけた表情で高い天井の方に目を向ける。
マクマソン卿のような人物は間違いなく天国に行ったから、来るならやはり空からだろう。
「そうですか、いやいや、これで私事が一つ減りました。
 なるほど、わざとであったとは。正直本心を申しますと安心しました。」
アルフレッドは、これまで出すまいとしてきた緊張の表情をやっと解くことが出来た。
セキュリティシステムが突破された可能性は問題事であるが、
ヘンリーが負けたことは彼にとっては問題事ではなく、心配事だったのである。
「それにしても、マクマソン卿のチェスを打てる存在ですか。」
「そう、エラリー・クイーンはその必要があれば、撲のチェスも打てるだろうね。
 恐らく歴代の世界チャンピオン各人の打ち方も実践できるはずさ。
 そして、簡単には進入できないセキュリティを併せ持つ環境となると、撲の推理もあながち外れてないと思う。」


20世紀末、スーパーコンピューターがチェスで当時の世界王者を初めて倒した。
その初金星をあげた世界最高峰の電子頭脳を作り出したのは、やはり世界で電子産業業界トップ『イブン』だった。
後に、迎撃型セキュリティシステム『ペンドラゴン』を作り出すのだが、
チェスの対戦というただ一点において、コンピュータチェスのプログラムは袋小路に陥ることになる。
ありとあらゆる側面がデータ化できるチェスでは、それ以上の到達点が望めなかった。
独創性、閃き、直感といったデータ化できないものを、取り込むことのできない電子頭脳のジレンマ。
あらゆる性能が数日単位で進化している現在でも、
それは依然として実現が叶わないコンピューターにとってのパンドラの箱である。


「内通者の洗い出しも必要になりそうですな。
 アイギスの精査チェックと並行してイブンへの探りをいれましょう。
 とはいえ、もしペンドラゴンが相手となると機材と人材の準備が必要ですが.....」
「世界最難関の金庫破りとその番人退治となると、時間がかかりそうだね。」

もし失敗すれば、コンピュータ犯罪としてクレイトン家の立場は失墜することになる。
イブンが仕掛けたという確かな証拠を得たとしても、それを公表するわけにもいかない。
この場合は、『知っている』ということが最大の武器、交渉材料のストックとなるのである。

「実際、やりたがる人間は多いでしょうが、実質クレイトン家の名で召集できる人材は限られます。
 多かれ少なかれ問題のある人物が多いのですが.....
 ロンドンのダブルデッカー、シカゴのブルーギル、ベルリンのアイスバインに、香港のジェットリュー...」
さらさらと手帳にハッカー達の通り名を書き出し、
その7割が服役してるか保護観察の立場にあることにアルフレッドは目を覆いたくなった。
「チーム編成にメンバーが8名、対進入用のシステム、ハードの搬入となりますと.....
 始動までに一週間、結果が出るのは未定....これにかかる予算は概算で5億......これではお話になりませんな。」
「なんだか世界中に散らばってるみたいだし、何かと大変そうな業界みたいだね。」
「もう一つ手があります。
 こちらはチームを組むことも、特別な機材を調達する必要もありません。」
「アルが遠まわしに話を進めるからには、何か問題が含まれてるんだね?」
「問題というわけではないのですが.....
 実はクレイトン家に仕える者の中に、これらを一人で解決できる人材がいます。それは...」


その時、
『コンコン』
「ヘンリー様、アルフレッド様、お夜食をお持ちしました。お召し上がりになりますか?」
ヘンリーの部屋を扉がノックされた跡、クレアの声がドア越しに聞こえてきた。

「ふむ、ちょうど良いタイミングですかな。この機会にヘンリー様に英国最高峰の電情戦のエキスパートを紹介しましょう。」
「えーと、一体どういう....」
今、この場にいるのはヘンリーとアルフレッド。扉の向こうにはヘンリー付きのメイド、クレアのみである。
「クレア、入りなさい。」
アルフレッドは戸惑うヘンリーに返答するかわりに、鴨のサンドイッチをワゴンに乗せたクレアを部屋に招きいれた。


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