「ダメだ!絶対ダメだっ!」
年相応の少年らしい駄々のこね方というのは、ヘンリーのような特別な人間にはおおよそ当てはまらない。
様々な物事に対して冷静に対処できるという能力を持つ者は、動揺や不安といった感情を持ちえない。
またそういった不安要素がある場合であっても、周囲にそれを伝達してはならないのである。
それが、日本ならばまだ小学校に通っている年齢のヘンリー少年が、物心ついた時から刻み込まれた帝王学である。
命令を出す人間の動揺は、命令を受ける者に伝播し、組織の機能を麻痺させてしまう。
よって、ヘンリーが真っ青になったり真っ赤になったりして、「ダメだ」を連呼するという状況は、
上に立つ者としての資質に疑問を持たれかねない行動であり、逆に、そう求められるだけの能力を有している証拠でもある。
「ですが、お話を伺ったところでは、クレイトン家のシステムを使うわけにはいかないようですし....」
クレアは、駄々ッ子になってしまったヘンリーと、しばし様子見といったアルの方を交互に見つめる。
仕えるべき幼い主人の、普段はなかなかお目にかかれない態度に、かなり新鮮なものを感じつつ、
「このクレアにお任せいただければすぐにでも....」
クレアはそう言いながら、アルフレッドが持ち込んでいたノート型パソコンより二回りほど小さい、
彼女のオリジナル携帯端末(コンピュータ本体は別室であり、もちろんハンドメイド)を起動させる。
「ダメったらダメだーッ!」
床をダムダム踏み鳴らしながら反対の意を唱えるヘンリーを見て、クレアはカメラを持ってくればよかったと密かに思う。
クレイトン家のコンピューターシステムに侵入した(かもしれない)敵の正体を探るため、ヘンリーに残された手段、
それはヘンリー付きのメイドであるクレア嬢の持つ、電子情報戦における特殊な能力だけであった。
その能力は要約すると、コンピューターのハッキングであり、世間一般の法律に照らし合わせて鑑みるに犯罪である。
敵と目される侵入者は、非常に強固なセキュリティシステム・ペンドラゴン級の向こう側へと逃亡しているため、
こちらも非合法な手段で、そのセキュリティを突破しなければ相手の背中を見ることすら叶わない。
しかし、簡単に口にできるほど生易しい作業なはずもなく、もし仮にセキュリティの網にかかった場合、
少なくとも翌日にはインターポールからリアクションを得られること間違いなしとなる。
敵が利用したセキュリティシステムは、世界のトップ企業イブンと推測されるからである。
国際法におけるハッカーの犯罪の定義は非常に曖昧ではあるが、軍事機密に関するハッキング行為は最低でも禁固刑数百年。
クレアはヘンリーとアルに自分がこの事件を解決できる能力があることを、改めて伝えた上で、
万が一失敗した場合に備えて、クレイトン家の常駐システムではなく、彼女自身が趣味で使っている端末からのハッキングを提案した。
そして、この提案をした直後、駄々ッ子ヘンリーが登場したわけである。
現在のヘンリーの心境を言い表すのは非常に複雑である。
例えば、クレアに危険が及ぶのを止めたい
例えば、クレアが犯罪行為に手を出すのを止めなければならない
例えば、自分にはできないことをあのクレアができる
例えば、女性はやさしく大事に扱わなければならない
例えば、自分は彼女ことを本当はよく知らない、そして彼女は絶対自分をよく知っているということ。
便宜上の建前から、心の奥底にある様々な感情がせめぎあった上で、ヘンリーは『クレアを駒として使う』決断をしなかった。
おそらく、クレアにこの件の調査を担当させた場合、
彼女は間違いなく、エラリーが誰であるか、ヘンリーとチェスを指したのが誰であるかを突き止めるだろう。
アルフレッドが彼女を『最高峰の人材』とヘンリーに紹介した時点で、疑う余地はない。
彼女が状況を打開、収束できる力がある確信がなければ、
わざわざヘンリーにクレアの能力を教える必要はなく、選択肢として薦めるわけがない。
口に出してしまうと、おおよそ稚拙な感情で、ヘンリーはこの一連の事件を解決できる最も有効にして有用な手段を放棄したことになる。
その人のことが心配だから。という想いは、クレイトン家次期当主としての資質には不必要である。
しかし誰かによせる思慕は、それが限りなく淡いものであったとしても、少年が徐々に大人へと成長しているあらわれでもある。
ヘンリー本人がその事に気づくには、もう少しだけ彼の精神的成長を見守らなければならないが......
「とにかく、この件に関してはアイギスの自己精査が終了するまで凍結。
システムに侵入されたというのはまだ仮定にすぎないし、
セキュリティレベルだってアルがちゃんとあげたんだし。」
クレアをどこかで意識しつつ、普段通りの冷静な次期当主へと戻っていくヘンリー。
「たしかにあと半時間ほどで結果は出ますな。
ヘンリー様がおっしゃられる通り、そう簡単にアイギスを突破できる人間がいるとは思え...........コホン。」
強固なセキュリティを攻略できる人材、つい先程そう紹介した人物が目の前にいては、いささか説得力に欠けるというものである。
アルフレッドは咳払いを一つすると、クレアに一つ目配せして言葉を続ける。
「クレア、もし仮にあなたがアイギスシールドにハッキングをしかけた場合の予測を教えていただけますかな?」
クレアはほんの少しだけその瞳に驚きの表情を浮かべ、
「レベル3はおろか、レベル1、つまり通常状態のアイギスであったとしても、ハッキングすることは事実上不可能です。
アイギスを構築しているセキュリティ担当者が内通したとしても、複数ある盾、つまり複数の相互監視システムがある限り、
あの子を生み出した人物であっても、現状のセキュリティに介入することはできません。
物理的に破壊するとなると話は別ですが、それに関してはアルフレッド様の方がお詳しいと思いますが....。
ただ、ハードに問題があるとしたら、そもそもレベル3への移行もできないはずです。」
いつもさほど変わりない口調で、まるで午後のお茶に添えるお茶菓子の解説でもするように、スラスラとよどみなく答える。
「要約すると、我が家のセキュリティは万全だから大丈夫ってことだよね。」
専門的な内容が並ぶクレアの説明を、ヘンリーは簡潔にまとめた。
「ふむ......しかしそうなると再び謎が残りましたな。」
「エラリーか.........チェスのプログラムを使うだけなら誰にでもできるわけだし、
僕たちは深く考えすぎてるだけかもしれない。
時間が問題を解決するかもしれないし、事態を進展させるかもしれない。
ここは後手に回されているとは考えずに、状況を見守るという方針を基本にしよう。
この問題はさっき言ったように保留。いいね?
クレアも絶対無茶なことはしないように。」
「クレアは.....クレアはヘンリー様が命令してくだされば、なんでもいたしますのに.....」
彼女の浮かべている笑顔は、優しくもどこか哀しげに見えたのは、やはりヘンリーの心に動揺があるせいだろうか。
「ヘンリー様はお優しいんですね。」
ポツリと呟くように洩れたクレアの一言は、ヘンリーがごく最近、どこかで耳に....いや、目にしたもののように思われた。
数十分後、アイギスの自己精査により、外部から非合法的な侵入がなかったという結果がもたらされる。
クレイトン家が有する世界最高のコンピューターセキュリティシステムには、何の問題がなかったことが立証され、
緊急対応であげられていたセキュリティレベルも通常時にシフトされた。
大きな問題が解決され、小さな問題が残った。
エラリークイーンは誰なのか?